「あたし おかあさんだから」炎上に思う女性の生きづらさ
絵本作家、のぶみさんが作詞した「あたし、おかあさんだから」という歌が、お母さんに自己犠牲を強いる歌だとして炎上しています。
歌詞については、検索すればすぐ見ることができるのでここでは引用しません。
「お母さんであること」「女性であること」のふたつのステレオタイプを否応なしに押し付けてくる文章が、多くの女性の気持ちを刺激したことは想像に難くありません。
今の女性は、選択肢が増え、生きやすくなったと言われるけれど、本当にそうだろうか。
そうじゃない、という声が聞こえてきたのが今回の事件(?)でした。
働く女性支援や、男性の育児参加、ママの社会参加、育児支援などが声高に叫ばれているのに、
実感として多くの女性は息苦しさを感じています。
独身でいること。
子どもを持たないこと。
専業主婦になること。
ワーキングマザーになること。
どの道を選んでも、その息苦しさから逃れることはできません。
社会のなかで輝く女性は素晴らしいと言われたら、「もっと輝け。母親だからと甘えず、身なりに気をつけて仕事をしろ」に聞こえるし、
お母さんは素晴らしい。母の愛と自己犠牲ほど尊いものはないと言われたら、
こどもを生んでいない自分、生んだけれど無償の自己犠牲をしていない自分、余暇を楽しむ自分に負い目を感じます。
オシャレも仕事も育児も夫婦関係も楽しむ女性が紹介されれば、
なにひとつ楽しめていない自分にガッカリしたりします。
もうなにをしてもなにをしなくても、なんとなく罪悪感を感じる。
そんな時代になってしまったような気がします。
もっと自由でいいはずなのに。
毎日コンビニ弁当だって、文明の利器と母の愛で温めてます!と胸を張っていい。
こどもがいなくったって、その分仕事がんばってます!と胸を張っていい。
そしてそれぞれの道で、自分が人生を楽しめるように努力することは、まったく悪いことではないはずです。
もちろん、歌では自己犠牲しろとも、好きなことを諦めろとも言っていません。
母親になってなにかを諦めていると感じているお母さんには、励みになる良い歌なのかもしれません。
でも、諦めたくない、と思っている多くの母親や女性の気持ちを、ガッカリさせたのです。
この歌詞から、
女性は仕事で大したことができるはずがない、だからこどもを産み育てるべきだ、それこそが偉大な仕事なのだ、という昭和時代の無言のメッセージを感じるのは私だけでしょうか?
育児に幸せを感じるのも、愛情をかけて料理するのも自由です。
でもそれは人に押し付けるものではありません。
100人いれば、100通りのお母さんがいていいはず。
ピンヒールにミニスカートを履いて道を闊歩するママがいてもいいし、大型バイクにまたがるママがいてもいい。
可愛いエプロンでケーキを焼くママがいてもいいし、何十人もの部下を抱えてテキパキ指示を飛ばすママがいてもいい。
私たちを自由にすることができるのは、100通りの私たちだけかもしれません。